- 2007-07-08 (日) 1:36
- Photo Essay
San Franciscoで見たかった物
その一つは独特の色
その国にはそこでしか存在しない色や配色があり、
個性の象徴としてそれが意識の底に刷り込まれる物らしい
だからこそ
この街ならではの色を切り取りたい・・・
と思っていた
市街地にも住宅地にも
道端の落書きにさえ
この街らしいCOLORがある
そしてその色合いは
何故か優しい感触を持っている
私の写真は、
モノクロの方が良い・・・と
言われる事がある。
色弱だ・・と言われて育った私にとってそれは、
自分の見えている色が、もしかして他人とは違うのかも・・・
と考えさせられるキッカケになる一言。
それを、構図の気持ち良さを分かち合えた言葉として受け取っていても、
どこかに、色がおかしい?・・・と尋ねたくなる気持ちが芽生える事は避けようがない。
自分自身では、確かにある特定の環境下において
くすんだ黒めの緑と焦げ茶が判断つかない事には気付いているが、
それもちゃんと光が当たっていれば解る程度の事なので、
あのパズルの様な色弱検査用の点描画だけが嫌いだったりする。
でもまぁ・・・
そのおかげで、色に拘る部分は頑固にあったりするわけで、
何事も捉え方が大切なのだ・・・と思える事は、嬉しい。
どこへ行っても、地ビール「アンカースチーム」を楽しむ毎日だったが、
その為のこんな店も、どこかに派手な色を配して個性を演出していた。
大胆かつ解りやすく、そして派手で楽しい・・・
それが、言葉さえ通じない他民族が集う国家の常なのか、
自分はココにいる!と叫ぶ必要性を生むとともに、
こんな形を作り上げるのだろう。
奥ゆかしい派手さと、地味で渋い派手さ。
そう思える配色は、日本にはまだ少ない。
それは、言葉を交わさずに意思疎通を行ってきた文化が日本にあった名残であり、
長く存続してきた国が持つスタイルの現れと行ってもいい。
しかし・・・
残念な事に、その文化は戦後の教育改革により
かなり失われてしまった。
そして今、行き場を失った想いは、
それを受け止める記号さえ希薄な日本において、違う形で踊る・・・という悪循環。
国を背負おうと志す人達には、
現実的な問題を対処するだけでなく、
文化を守り育てる意味を理解しながら、
これからの生き方を提案して欲しい・・・と思う。
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