- 2006-09-06 (水) 17:52
- 自己主張
児童養護施設に行ってきた。
ただ、児童養護施設と聞いても、
ピンとこない人の方が多いかも知れない。
私にしてもその施設がどのような物かは何となく・・・しか知らなかったし、
行った事は過去、一度も無い。
「コチラで生活している子供達には、99%・・・親が居ます」
「え?
家族による養育が困難な・・・という状況って、
親が居ない・・という状況が多いのかと思いましたが?」
「戦災孤児を預かっていた時代とは違って、
現在は虐待等の理由によって親と暮らせない子供が、多いのです。」
2歳から18歳までの児童が暮らす生活の場は、
想像していた以上に開放的で清潔で、そして穏やかな空気が流れていた。
ただ、子ども達に個室が与えられているワケではなく、
子供の数だけ保育士が居るわけでもない。
小さい頃から集団の中で暮らす彼らは屈託が無く、
人見知りをするような素振りはとうとう見る事ができなかった。
「人見知りをしない・・・というのは、ある意味異常なんです」
「え?」
「子ども達が個として生きるのに適している環境ではない事と、
100%その子に向かい合う事ができない状況が、そういった反応を招いているのかも知れません。」
実は、里親制度について調べている中で施設の現状を見に行く事になったのが今回の訪問だが、
心ができていく時代を過ごす場所としてこの施設を見ると、そこで生きるしか術のない子ども達の辛さが心に刺さって痛かった。
「最初は私達が愛してあげればそれで良いと思ったんです。
でも、それは大きな間違いでした。」
「正直に言えば、今まで持っていた価値観も概念も、全部壊れてしまった・・・というのが、
初めて里子を育てた時の正直な感想です。」
多くの里子を育ててきた方に話を聞いてみて納得できたのは、
そんな声を聞けたから・・・だった。
施設では6人の児童に対して1人のスタッフ・・・といった現実があって、
そこにいる子供を預かるなら、1対1のつき合いとして精一杯の愛情を注ごう・・・と思うのは当然だろう。
だが子ども達にとっては、法律でカバーしてもらえる時期に育ててくれる親代わりの人達としての認識はあり、
例えば虐待によって傷だらけになった心を抱えていたりすると、愛情の存在と意味を理解するところからのスタートとなるため、
「家族」という言葉の意味を理解できるまでにはかなり時間がかかってしまうのだろう。
「どんな瞬間に『家族』になれたって、感じましたか?」
「・・・・・素直に甘えてくれた時・・・かな。
つい最近、なんですけどね」
里子として生きてきたその子は、
18歳になったら愛情豊に育てられた家から出なくてはいけない・・・と思っていた。
その恐怖心と多感な年令がその子を荒らす。
「家族」として育ててきた里親の2人がどう説明しても納得できず、荒れに荒れた・・・・が、
里親の深い愛情と長い時間が、里子の心に最初から存在した深い溝埋める力を持っていた。
愛情とは、見返りを求めない想いであり、
愛情によってのみ応える事のできるもの。
自らの物を分け与える事が愛情であり、
余力を割いて分け与える施しとはまったく別のものだ。
血縁関係であったり、戸籍上の家族である事が家族の証明だとしても、
愛情を注げる相手である事が実は、家族としての関係の第一歩なんだろう・・・と思っている。
話を聞かせてくれた親子は、
家族としての絆を感じさせる空気を持っていた。
それはとても優しい色と匂いを伴っていた。
コメント:1
- 武田 06-09-07 (木) 20:41
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子供はある程度成長すると、親と自分は別々の人間だということを理解する。
そんなとき子供にとって親とは絶対的に信頼出来るOnlyoneの存在で、
それが他者と対峙する基本でもあり、道標でもあり。
そうして自分以外の信頼出来る他者、という認知を作り上げながら成長していく。
でも子供と親の信頼関係がうまくいっていないとしたら。
「なんで怒るの?」「なんで叩くの?」疑問を持つ子供。
でも、絶対的に信頼出来る親に見捨てられない為に、必至にそれに従おうとする。
怒られたのは、叩かれたのは「きっと」自分が悪いからだ、と考えるようになる。
自分の気持ちは後回しにして、あるいは押し殺して。
そうして他者との接し方が解らなくなり、根の深い不信感にもつながり、
人とうまく関係を持てなくなる。
そんな時ある子供は閉じこもり、ある子供は誰にでも迎合するようになる。
親と子は、表面だけの関係じゃなくて。
親以上に親になれたら、それは双方にとってとても幸せな事だと思います。