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2008.8.6 HIROSHIMA

 

8月6日
平和記念公園に、私は居た。

 

何故、ここに来ようと思ったのか、
それは自分でも、今ひとつ理解できていない。

だから、感じるままにシャッターを切った。

 

 

核兵器が廃絶されるまで燃え続ける「平和の灯」は、
この日も燃え続けている。

この火が消えない事に対して、
「燃えっぱなしは、エコの時代にもったいない」
と言う人がいる・・と聞かされて、
63年の月日は、こうも人の気持ちを変えてしまうのか、と、
ただただ悲しい気持ちに包まれた。

 

 

毎年必ず、この日を街全体で迎え、
戦争の記憶を、核の怖さを伝える意味を、
あらためて考える、いや、考えざるを得ない場所。

その消してはならない記憶を伝える義務は、
日本にこそあると思うのだが。

 

 

牛乳パックで作ったキャンドルに、
平和を求めるメッセージを綴った子ども達は、
何を思うのだろう。

 

 

灯籠を流す少年は、何を思ったのだろう。

 

 

コメント:5

たけだ 08-08-19 (火) 20:55

どなたか平和公園をよく知っている方でしたら、一枚目はある謎を含んだ写真ということに気づきます。
どんな方法かはわかりませんが、なかなか技術的にも興味深いです。

これを拝見し、自分は多重露光で似たようなことを試しましたが、不自然さがでてしまい・・
このドームを見ると少しボケというか、そういう感じが必要なんだな、と思ったりで、非常に勉強になりました。。

某若 08-08-19 (火) 21:05

私が撮っているのは、その時の空気と時。

そのために必要な事はしますが、
基本は何を感じて何を切り取るか・・・という事に尽きます。

あの日の空気は、御覧になって感じ取れたでしょうか?

たけだ 08-08-28 (木) 20:42

僕は多分、感受性が低いのかもしれません。
とくに自分自身に何らかの思い入れがあると、それを取っ払うことが
なかなか、どうしてもできないでいます。
広島には6年間、原爆ドームから自転車で15分のところに住んでいましたが、
自分の記憶と先入観がでてしまいます。

でも1月の写真展には行かせていただきたいと思います。
写真の実物に触れてみたいなあと思います。

某若 08-08-29 (金) 9:18

写真に言葉を添える事は、そのメッセージを明確にする意味と、見方を誘導する仕掛けになります。
で、最近は、そんな事もしないで、自由に感じてもらう事の方が、実は自分の気持ちの感触が
見る人にとっては違うように見えたとしても残るのでは・・・と思っているのですね。

作者の意図を押しつけるよりも、見てもらって、単純に感じる事があって、
それが何故か、心にひかかってくれる感触だったら良いな・・・と。

誰が見ても、同じ事を感じるような作品を作る事は、
たぶん私らしいやり方じゃないし、第一そんな凄いカットを撮れるわけじゃない。
だからと言って、自分の意図を押しつけるのは、もっと嫌なのです。

その日その時の自分を、正確に事細かく見る人に理解させ、
同じような環境の中でその映像を見てもらわないと、
きっとその時の事は伝わらない。

だからと言って、8月6日に現場に立ってみて想像してください・・・とは、
言いたくないし本意でもありません。

ただ、この風景に興味を持って、自分も見てみようかな、と思ってくれる人がいるとすれば、
それは、私がこの写真に込めた意図の中の1つが、伝わったという事でしょう。

写真は、自由に見てもらいたい。
好き勝手に批評してもらいたい。

「下手くそ」とか「ワケわからねぇ」とか、
「画質がどうの」とか「テクニックがどうの」とか、
見る人が自由に感じて良いものです。

それでも、私の写真を見たいって思ってくれる人がいるのなら、
それは凄く幸せな事です。

1月、1人でやれる限界に挑戦しますが、
PCで見るものとは違う、本来見て欲しいサイズのプリントを、
誰か1人でも見に来ていただけたら、
それで充分に私の気持ちが伝わっている証拠だと、思っています。

という事で、頑張らないと・・・(^_^;)

群馬の齊藤。 08-08-31 (日) 22:14

こんばんわ!(^^)
某若さんの写真展、楽しみにしています。
私が某若さんの写真で好きなのは、光と時です。
自分の目で見たような感覚、その瞬間にその場所に居合わせた感覚。
映し出された人々の思いが伝わってくる気がします。

私が、今まで写真で衝撃を受けたのは、
capaの写真展で見た、ベトナムの写真でした。
階段を上がったところに展示してあったその写真(畳一畳くらい)の前に立った瞬間、
頭の中にヘリの轟音が響き渡り、死ぬかもしれないと言う恐怖が体を凍らせました。
自分自身が戦場の中に放り出された感じでした。
我に返ってよく見ると、写真は、粗く、ピンボケ君、
なのに、自分の中では鮮明にその風景が再現され、
その場の空気を感じました。

縁することによって、命が出てきますので、
写真を見た人の心?命にその瞬間を写し出す事もできるのかも知れませんね。

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